アマチュア読者の備忘録

本が好きです。兵庫県神戸市で開催されている「なごやか読書会」によく参加しています。https://kobe-nagoyaka.wixsite.com/book

藤井直敬 『拡張する脳』

 

拡張する脳

拡張する脳

 

 普段とらえている現実は本当に現実なのだろうか?

目にする人や物は本当にそこに存在していると証明できるのか?

マトリックスインセプションのように、実は異なる世界にいるのかもしれない。

 

「自分って何なんだろう?」という問いから、著者は脳を細分化して考えるのではなく全体として眺める一見無謀とも思えるテーマに挑んでいる。研究テーマは社会脳、他者の存在によって行動を変える脳の働きである。

 

例えば上司には根も葉もないお世辞を並べ立て、部下には厳しく無茶な仕事を押し付ける会社員、普段はしたこともないような不自然な礼儀正しさ、ハキハキした口調で面接に臨む就活生や受験生を考えてみればわかる。彼ら(私も含めて)は接する相手に応じて態度を変える。生きていく上で、誰とでも全く同じ接し方をする人間は皆無であろう。

 

このような社会性を扱うのは心理学や社会学であったのだが、脳科学の見地から取り組んでいるのが著者の所属する理化学研究所の適応知性研究チームである。全方位型のパノラマカメラとHMDを使用したSR(Substitutional Reality)システムによって、視覚と聴覚を切り替えて代替現実をつくり出し、様々な状況で脳がどのようにふるまうのかを研究している。SRシステムは何度でも現実を再現できるので、現実の一回性に煩わされずに済む。システム運用に必要な装置がなかったため、既存品を組み合わせてつくってしまったそうである。高い知性の持ち主はブリコラージュが得意である。

 

SRシステムで現実と代替現実を繰り返し切り替えることで、被験者は高い確率でそれらの区別がつかなくなり混乱するという。著者の知見は絶対的な現実は存在せず、思い込み、メタ認知(知っていることを知っていること)が各々の現実をつくっているということだ。考えてみると、公平・客観・中立な報道というのは原理上不可能である。映像を扱うカメラマンや編集者が人間である以上、彼らの世界の見方は一律ではない。対象物を見る角度は人それぞれであり、同じ対象物を観察するにしても、ある人は真正面から見つめ、別の人は少し移動した位置から眺めるのが自然だろう。

 

科学では実験の再現性が求められる(はやりの捏造はダメデス)。一回性の問題を解消するために、著者の研究チームは上記のSRシステムだけでなく、脳の働きを詳しく調査するために「多次元生体情報記録手法」を開発した。サルの脳に針状の電極を刺したり、シート状の電極を取り付けて各条件における脳活動を記録するとともに、モーションキャプチャーを使ってそのときの身体運用も記録してしまおうという実験手法である。どうせなら脳活動と行動を全部記録してしまおうという考えから生まれたという。脳を細かく分けて機能を調べるのではなく、全体の活動を記録してしまってから気になった箇所を仔細に考察しようというのだ。

 

著者曰く、研究のやり方にはサーチライト型とバケツ型の2タイプがあるという。通常の研究スタイルはサーチライト型の研究で、仮説を立てて実験で検証するやり方である。これに対して著者が採用するバケツ型は何が取れるかわからないけれど、とにかくできる限り記録して、その後で可能な限り検証しようというスタンスであり、サーチライト型とは逆の考え方である。

 

著者の研究チームのすごいところは、記録したデータをウェブで一般公開してしまったところにある。アメリカのNIH(国立衛生研究所)のアンケート調査によると、論文発表後に実験データの公開を義務付けるというアイディアに対して、大半の研究者は反対しているという。その理由で最多だったのが、論文に間違いを見つけられるリスクを避けるためという回答だったのである。選んだテーマについて突き詰めようとする研究者ならば、過去の偉大な先達たちの成功の裏にある論理の綻びやミスから、「完璧な人間などいないのだから、とにかく自分が信じる仮説を公開しよう。」という教訓を大事にするのではないかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。やはり自分こそ完璧だという功名心が彼らを秘密主義に駆り立てるのだろうか。

 

反対に著者は得られた実験データをパブリックドメインに開放することで、早く正解を見つけようという考えである。情報のあり方が中央集権型から離散・ネットワーク型に移行した現在では、このような考え方がこれから主流になりそうである。一人でコソコソ考えないで、みんなで世界の成り立ちを考えないかいというあり方はありだと思う。太っ腹な人物でない限り、このような行動は起こせない。社会脳の研究から得られた知見が、著者の考え方に少なからず影響を与えているのであろう。

 

著者はSRシステムを広く認知してもらうために、映画やテレビの再発明に繋がるようなユニークなコンテンツを開発しようと画策中のようだ。本書が出版されたのは2013年の9月だったが、今はどうなっているのだろう。